2010年5月15日土曜日

HINCHADA HAY UNA SOLA

ヌエーボ・ガソーメトロでは、毎試合さまざまな雑誌が無料で配布されています。

    これは最近発刊されたCASLA公式の"La Revista de San Lorenzo"。
    昨日の10後期最終節NOB戦で配られた第3号です。

さすがにクラブが出しているだけあって内容も充実。
今号の選手インタヴューは、対レプラということもあり、アカデミア(ロサリオ)の元選手&インチャであるキリでした。

    クエルボスとカナージャス。
    かつては友好関係にあった両クラブのインチャス。
    95後期では彼らのカンチャで私たちが優勝。
    シクロンの戴冠をいっしょになってお祝い。
    現地にいた彼はこの時のことを詳細に語っています。

そして、興味深いトピックも。
ここからが本題です。

    「インチャーダと呼べるのは一つだけ」

リベルタドーレスを獲ったことがなく、インテルコンティネンタルやムンディアルで日本に行ったこともないサン・ロレンソ。
ではなぜグランデなのか?
それは世界で唯一インチャーダと呼べるサポーターがいるから。

LA GLORIOSA

アルゼンチン・スタイルのゴール裏を築き上げた栄光のインチャーダ。

ボエードの人々は、まだアマチュアだった1920年代、早くも歌によってチームをサポートすること、つまり"応援"を開始。
これがインチャーダの始まり。
最初の応援歌は二つの有名なタンゴ、MODESTO PAPAVEROの"LEGUISAMO SOLO"とMANUEL JOVESの"BUENOS AIRES"を元歌にしたものであった。

46年のプリメーラ優勝時には、興奮したインチャスがピッチに乱入するという"誇らしい"不祥事を史上初めて記録。
同シーズンにロサリオで行われたニューウェルス戦にはブエノス・アイレスから5,000羽のカラスたちが参戦、この時より当時まだ一般的でなかった他都市AWAY試合への遠征を開始した。

60~70年代、他クラブのインチャーダもどきにコピーされ、今日でもあらゆるカンチャスで歌われている名作を多数生み出す。
70年代には、昨年創刊90周年を迎えたスポーツ雑誌"El Gráfico"で、毎号アスルグラーナのゴール裏、応援歌を特集したコーナーが設けられるほどであった。

例えば、元歌が存在しない↓は代表ソングとしても使用され世界へ。

80年代の終わりにウラカンのカンチャで行われたベレス戦から、シャツを手に持って頭上を旋回させるスタイルも導入した。

そして定番曲である↓も、世界規模でコピーされている。

地球の裏側で東京のサポーターが歌うほど。

このセンスの素晴らしさは、2000年に発行されたD10Sマラドーナの自伝"Yo soy EL DIEGO de la gente"で大絶賛されることとなる。


94年、マンディジューの監督としてペドロ・ビデガインにやってきた際、「世界一のインチャーダから世界一の選手へ」というプレートをラ・グロリオーサから贈呈されていたディエゴ。
彼はその本でこう綴った。

「生涯ボカのパパであるチームは、僕には一度も勝つことができなかった。だからこそ、クエルボスはこんなにも僕のことを愛してくれてるんじゃないかな。サン・ロレンソのインチャーダはアルゼンチンで最も刺激的、才能にあふれる歌を次々と繰り出して、君を楽しませてくれるよ。彼らのことが好きだ、大好きなんだ、現役時代あのユニフォームを着てプレイできればよかったなぁ」と。

クラブの暗黒期には、「良い時も悪い時も、いや悪い時は良い時以上に応援する」という言葉に嘘がないことを証明してみせた。


資金難からエル・ガソーメトロを失ったサン・ロレンソは81年に2部降格が決定し翌年はそのカテゴリーを戦ったが、試合数が全42試合と1部のそれより10試合以上少なかったのにもかかわらず、観客動員数で2位のボカに20万人以上の差をつけて唯一の100万人越えを記録。
エル・モヌメンタルで行われた6節のティーグレ戦では、前週に行われたスーペルクラシコの2倍以上となる7万4千人を超えるインチャスを集めた。
結果、1年で1部に復帰。
他方、翌々年に2部落ちしたラシンでは観衆300人という試合もあり、2年以上そこに留まることに。
また2部時代には、カンチャまで大勢でねり歩くキャラバンやスタンドで無数に振られる竿付きフラッグをポピュラーなものにした。

さらに、ラ・グロリオーサは他とは違った。
06前期第16節、AFAは前節アベジャネーダのクラシコにおいて暴力沙汰が発生したのを受け、全試合「AWAY無観客」にすることを決定、ボカやインデペンディエンテ、当期優勝のエストゥディアンテス他6チームのもどきたちはこの措置を承諾しTV観戦。
しかし、本物のインチャーダはこれに抵抗した。
「インチャスなければ試合もなし」をスローガンに、シクロンの選手たちを乗せたバスがシウダ・デポルティーバから敵地ラシンのカンチャに向かう際、その出口を封鎖。
ペナルティ覚悟の戦術であったが、何のお咎めもなく試合は翌期途中に延期され、AWAYゴール裏にしっかり陣取ってチームを1-0の勝利に導いた。

今日のインチャーダ。

97年3月1日土曜日の夜に念願のアルゼンチン初上陸を果たした私。
翌日、サン・ロレンソ対ウラカンのクラシコでシクロンに初めて会い、ラ・グロリオーサに度肝を抜かれた。
この後みたラ・ドーセ、ロス・ボラーチョスなぞ比較にならなかった。
もしこの時ボカやリーベルしか見てなかったら、今頃は日本で平凡な生活を送っていただろう。

で、人生が狂った。
でも全く後悔はない。
たとえ死ぬまでにリベルタドーレスを獲れなくても、今後一切何のタイトルも獲れなかったとしても。
昨日、今日、そして明日も輝きを放つこのインチャーダとともにあり続けるぜ。

※上の動画は人様のものなので、消えちゃう可能性があります。