2008年6月14日土曜日

ルーソ監督正式決定!

口頭で基本合意に達していたルーソが予定通り契約書にサイン。
ラモン・ディアスの後を継いでサン・ロレンソを率いる監督が本日正式に決まりました。

選手たちとの顔合わせを済ませた新監督は12時半から会見に臨み、以下のように語っています。

「歴史と伝統があるビッグクラブを指揮することができ、たいへん満足しています。偉大な監督たちが率いてきたクラブを今回私が任されることになったのです」

「サン・ロレンソは優勝を狙わなければならないクラブで、ボカやリーベルのサポーターと同じように、人々が常にそれを望んでいることは理解しています」

「今いる選手には全員残って欲しいというのが私の希望です。サン・ロレンソは人材豊富で、このままチームとしての成熟度を上げていければと思います」

「この半年間のチームはとてもすばらしかった。1つのPKによりリベルタドーレスで敗退しましたが、コパとはそういうものです。私たちはすべての大会で優勝を目指します」

「ラモン・ディアスはこのクラブで成功しました。プロとして私は彼を尊敬していますし、彼とは良好な関係を築いています」

「選手たちと意見が合わないことは、私にもべレスやボカでありました。重要なのは仕事に徹すること、それだけです」

契約内容は既報の通り、7月から1年間で年俸約100万ドル。
オプションで後期最終節の1試合を率いる提案をされたそうですが、それはない模様。

ルーソは選手時代の13年間をすべてエストゥディアンテスで過ごし、監督としてはトップカテゴリーでタイトルを獲得したべレス、ボカの印象が強いです。
しかしサン・ロレンソとも浅からぬ因縁があったと、今になって明らかにされました。
話は彼の少年時代に遡ります。

「ラヌース生まれ」とされているミゲール・アンヘル・ルーソの実際の生誕地は、さえないクラブがあるパルケ・パトリシオスだったそうです。
その後ラヌースに移りましたが、それまでの間にパル・パトの隣で偉大なクラブがあるボエードに多くの友人を作っていました。

そのうちの1人が、現在サン・ロレンソのユース部門を統括しているフアン・カルロス・フェラーリです。
1968年、ミゲリート少年は、このフアンシート少年ら仲間と共にサン・ロレンソの入団試験を受けます。
そして、当時のユース監督カルロス・ロマーンの目にとまりました。
「ルーソはロングシュートを持ったヴォランチで、いい選手だった」とフェラーリは振り返ります。

この時代は今と違いユース年代の公式なリーグ戦は行われておらず、大きな試合といえば単発の大会のみ。
早くも実力を発揮した少年は、モヌメンタルで行われたコパ・コカコーラでシクロンと共に優勝し、賞品のブラジル旅行を獲得しています。

その後もミゲリートは、アスルグラーナのユニフォームを着てトップデビューを果たす夢を見ながら、ラヌースからボエードに通う日々を送りました。
実力的にも申し分なかった彼は、何事もなければその夢をかなえることができていたでしょう。

しかし入団から3年間後、監督のロマーンが首脳陣と衝突しクラブを去ることになります。
行先はエストゥディアンテス。
この時彼は何人かの少年を引っ張っていきましたが、その中にミゲリートも含まれていました。

2年後。
ロマーンはボエードに戻ります。
そしてミゲリート少年をピンチャから取り戻すよう画策しました。
3ヶ月間試合に出られずひたすら練習に励む少年。
しかし、規定・契約の問題からボエードへの復帰はかなわず、彼はラ・プラタに留まることになったのです。

ミゲリートが最初にガソーメトロの門をくぐってから40年。
当時から旧知のラファエル・サビーノ会長に紹介されてヌエーボ・ガソーメトロのプレスルームに登場したミゲールは、今日ようやくボエード復帰を果たしています。

チームは7月7日に始動予定。
"古巣"に"戻ってきた"ミゲール・アンヘルと共にシクロンは戦います!